2016年5月24日(火曜日)

(122)芭蕉道への旅

カテゴリー: - tanaka @ 11時15分02秒

(122)芭蕉道への旅 森村誠一 角川学芸出版

◆「夫天地者万物之逆旅光陰者百代之過客」(それ天地は万物の逆旅にして光陰は百代の過客)

逆旅:逆は迎える意味。旅、宿の意味。

李白のこの詩文を読んだとき、私(芭蕉)は心身に強い衝撃を覚えた。俳人として一応の名声を博し、多数の弟子に囲まれ、定住閑座して起句している限り生活は保障され、人生は安泰である。弟子はますます増え、私の名前は不動のものとなっていくであろう。だが、果たしてそれでよいのか。風雅の道を追い求める身が定位置に根を生やし、名声と多数の弟子の上に胡坐をかいて、句魂が磨かれるか。

李白の詩文は、居心地の良いまま深川の地に根を下ろしつつある私に、忘れかけていた未知の遠方への憧憬をかき立てた。月日は繰り返しのきかない一期一会の永遠の旅人であり、年々歳々過ぎ行く時も行きて還らぬ旅人である。船頭、馬方なども旅とともに生き、移動の中に老いていく。風雅の道の先達も、行旅中、死を迎えている。私もいつのころからか、空を行く雲の行方に旅心をそそられ、旅を恋う想いが募ってきた。近年、海浜をさすらい、去年の秋、隅田川のほとりの陋屋に蜘蛛の巣を払って落ち着いたが、春がめぐり、霞立つ遠方に、束の間、休眠していた旅心が白河の関の彼方より道祖神に招かれたかのごとく、居ても立ってもいられなくなった。

草の戸も住み替はる代ぞ雛の家

(草庵の譲受人の家族には少女がいると聞いており、侘しい苫屋にも次の住人の代には雛が飾られるであろう。)

◆立石寺。清風に勧められ、尾花沢から七里ほど引き返し、立石寺をおとなう。開基は慈覚大師円仁。日脚の長い季節であり、到着した時、まだ太陽の位置に余裕があり、山麓の坊に宿を取った後、山上の堂に足をのばした。岩襖に岩が重なり、怯えるほどの高みに堂が嵌め込まれている。松や檜は年輪を重ね、土石も古格をおびて苔に包まれている。周囲は森閑として耳を圧するばかりである。崖の縁を伝い、岩を巻き、仏閣に詣でる。胸がすくような展望が開き、心気が澄み渡る。   

閑かさや岩にしみ入る蝉の声

◆著者の解説:立石寺69代住職・清原浄田氏の説明として、「芭蕉は『佳景寂莫として心澄み行くのみおぼゆ』としている。この地で俳句としての悟りを開いたのではないか。芭蕉の師は蝉吟、つまりこの地に来て師の教えが理解できた。特定の蝉ではなく俳句の師の教えを悟ったのではないでしょうか。」

◆著者の解説:芭蕉が俳道に入る前に仕えた主は伊賀藩5,000石の侍大将・藤堂(よし)(きよ)の嫡子・良忠であった。藩祖の藤堂高虎が育んだ風雅尊重の家風を受け継ぎ、良忠は貞門季吟の門下となり、蝉吟(だんぎん)と号した俳人であった。蝉吟(だんぎん)の影響を強く受けた芭蕉23歳のとき、蝉吟(だんぎん)が他界してしまった。蝉吟(だんぎん)と死別して武家としての自分の将来に見切りをつけて俳句の道に人生の方位を定めたのである。主君であり俳道の師匠である藤堂義忠の俳号を、芭蕉が立石寺で起句した「蝉の声」に重ねて聞いていると、清原浄田師は示唆しているのである。

◇「おくのほそ道」を学生時代に読んだのは、書き出し冒頭の有名な文章とか、入学試験に出てくるような部分で、今回ようやく全文を通読できた。もちろん、現代語訳の本を見つけたからだ。芭蕉は1644年に三重県伊賀市生まれ、そして16941128日に49歳で亡くなった。西行500回忌に当たる1689年の327日、弟子の曾良を伴い芭蕉は『おくのほそ道』の旅に出た。すでに多くの弟子に囲まれて、名声を確立していた45歳の時だった。江戸深川に何の不自由もなく暮らせており、何も好き好んで未知の辺境に行雲流水の漂泊の旅に苦労する必要は全くなかった。俳人として道を究めるためには、未知の遠方を探索するべきだと考えたのであろう。西行の生き方も学んでいたからでもあろうか。


(121)国歌斉唱

カテゴリー: - tanaka @ 11時13分36秒

(121)国歌斉唱 新保信長 河出書房新社

世界の多くの国の国歌について、それぞれの国の人たちからヒアリングして、各々の歌詞を読んでその特徴を浮き立たせている。国歌を歌うことには、ほとんどの国で、国民全員が賛成しているわけではない。

◆「君が代」は、どのようにして生まれたか?

歌詞については、平安時代に紀貫之らによって編まれた古今和歌集に収録された詠み人知らずの歌とされている。

「わが君は 千代にやちよに さざれいしの いはとなりて こけのむすまで」

長寿を祝う部に収められていて、「わが君」が、何千年も長きにわたり、小さな石が大きな巌となって、苔が生えるほどまでも、末永く健やかでありますように」と願う歌である。「わが君」は「君が代」と変化したのは、11世紀の「和漢朗詠集」からである。「わが君」とは、「年上の尊敬すべき人」である。

1869年に英国王子エジンバラ公が来日し天皇に謁見する際に、イギリス国歌と併せて演奏すべき日本側の曲が必要となった。そこで、イギリス軍楽隊の隊長フェントンに「君が代」に曲を付けてもらったのが、国歌の始まり。当時和歌と言えば、誰しも「君が代」を思い浮かべるほどにポピュラーなものだったようだ。

フェントン作曲の「君が代」は歌詞と合わないと評判が悪かったが、1880年になって今の旋律が作られた。しかしその過程は明確ではなく、ややこしいらしい。さらに誰もこれが「国歌」だとは認識はなかった。1882年に文部省が国歌の候補を選ぶように指示したが長いあいだ決まらず、1900年になって「小学校施行細則」によって、祝祭日の儀式の際には「君が代」を合唱するように定められた。昭和10年小学校修身の教科書に、「「君が代」は日本の国歌です。我が国の祝日やおめでたい儀式には、「君が代」を歌って、天皇陛下の御代万歳をお祝い申しあげます」と初めて「天皇奉祝」の歌となった。

◆イギリス国歌は、「女王陛下万歳」

God save our gracious Queen,神よ、みんなの優しい女王様を守って
Long live our noble Queen,
気高き女王様 いつまでも長生きして
God save the Queen:
神よ 女王様を守って
Send her victorious,
彼女に勝利を
Happy and glorious,
幸福と栄光を
Long to reign over us,
その女王様の椅子にずっと座っていて
God save the Queen.
神よ 女王様を守って

◆アメリカ:忠誠の誓い

“I pledge allegiance to the flag of the United States of America, and to the republic for which it stands, one nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.”

(私はアメリカ合衆国国旗と、それが象徴する、万民のための自由と正義を備えた、神の下の分割すべからざる一国家である共和国に、忠誠を誓います)

アメリカ合衆国への忠誠心の宣誓である。忠誠の誓いはしばしば合衆国の公式行事で暗誦される。アメリカ合衆国議会の会期もまた、忠誠の誓いの暗誦で開始される。◇アメリカの幼稚園生が、暗誦を学ぶ。

◆著者:大阪府出身。灘中高等学校、東京大学文学部心理学科卒業「東大の心理学科出身なのに、今や自身の心理状態も阪神の勝敗のみに左右されている」と揶揄されている。

 


2016年4月25日(月曜日)

(120)すらすら読める「今昔物語」 

カテゴリー: - tanaka @ 16時07分04秒

(120)すらすら読める「今昔物語」 山口仲美 講談社

◆「巻26の第3話 美濃国に因幡(いなば)(がわ)、水出でて人を流すこと」

長良川は、昔、洪水をもたらす川として有名であった。物語の少年の家も長良川のほとりにあった。大雨が降って大洪水になった。そうして少年は大きな災難に遭う。しかし少年は知恵と胆力で、一か八かの土壇場の挑戦を決行して助かる。命が危機に瀕した時、今昔物語集は「どのみち死ぬなら」、知恵と勇気を持って災難に対処することを勧めている。このチャレンジ精神が「今昔物語集」の根幹を流れる重要な思想となっている。命というものは自分の知力と胆力で守るものだという、最も基本的な事を現代人に思い起させる貴重な書物なのだ。「どのみち死ぬならやってみよう」とは、萎えている現代人を奮い立たせる合言葉である。

◇徳川幕府によって、18世紀に薩摩藩が治水事業を命じられて人的・財政的に多大の犠牲を負わされた。1000人近い藩士が派遣されたが、幕府の嫌がらせ、莫大な工事費用に藩は窮地に追い込まれた。51人が抗議の自害、33人が赤痢などで病死。工事終了後に総責任者の家老・平田靱負も自害。しかし、これが縁となって両県は友好都市などを結んで、災害時には岐阜県が土木専門家を派遣したり、友好関係が続いている。また、美濃地域は尾張藩に対して弱小藩であったため、岐阜県側の堤防高さは1メートルほど低くさせられていた、と聞く。

普段の長良川は、四万十川と並んで日本3大清流と称賛されるが、洪水の被害は続き、自分が小学生のころでさえ、大雨になると各家から男一人が堤防決壊を防ぐ作業に送り出す義務が課せられていた。

今昔(いまはむかし)、美濃国に因幡(いなば)(がわ)と云大きなる河有り。雨降りて水出る時には、量り無く出る河也。然れば、その河辺に住む人は、水出る時に登りて居る料として、家の天井を強く造りて、板敷の様に固めて置きて、水出れば其の上に登りて、物をもして食いなどしてぞ(あん)なる。男は船にも乗り、(およぎ)をも掻きなどして行けども、幼き者・女などをば其の天井に置きてぞ有りける。下衆は、其の天井をば□□とぞ云ける。・・・と、人皆云けるとなむ語り伝へたるとや

◆「巻28の第15話 豊後の講師、謀りてて鎮西より上ること」・・・今昔物語集のできた平安末期は、貴族階級が確実に衰退し武士が台頭してきた時代である。古い価値観や古い勢力が衰退し代わりに新しいモラル・新しい力を求めて模索していた時代である。控えめであることが美徳であった現代社会も、少しずつ崩れ、弁舌の立つことが必要な時代になっている。それは当に現代に重なっている。平安時代末期の処世術が現代にも通用している。

◆「今は昔」で書き始め、「となむ語り伝えたるとや」でおさめる今昔物語集は平安末期に書かれたが、未完成の古典。巻名だけがあったり、題名だけもある。□になっていて、言葉がない、たぶん書いている時は分からず、後に調べようとしていたがが、それも果たせずあの世に行ってしまったのだろうか。作者はだれか?色々の説があるが、大寺院に所属した無名の坊さん説が適切ではないか。この坊さんは高遠にして崇高な仏教徒ではない。人間臭い坊さんだ。けれども彼の人間を見る目はこの上なく、確かである。だからこそ、こんな面白い作品が出来たのだ。坊さんは、寺院内にある図書室によく出入りした。インド・中国・日本の三国の説話を集めては書き下ろした。一人コツコツ書き続けて、1014話を、毎日一つ書いても4年かかる計算だ。平安末期に書き残された今昔物語集は、奈良の寺院のどこかの片隅にひっそりと眠っていた。だが、鎌倉の中期にそれを書き写したがいて、その書写本が残っている。江戸時代には面白い話だけを取り上げ絵入りの本が刊行された。しかし芥川龍之介によって、文学的価値が認められるまで、その評価は極めて低かった。最近は歴史家の間でもにわかにクローズアップされて来ている。一面的な事実を記した歴史書と違って、当時の生活の実態をリアルに伝えているからだ。人々は何を楽しみに生きていたのか?どんな商売が栄えていたのか?人々はどんな病気に苦しめられていたのか?どんなものを食べていたのか?今昔物語集は鮮明に解き明かしてくれる。芥川は今昔物語集を素材にして「鼻」「羅生門」「芋粥」「藪の中」などの短編小説を書いた。


119)「教養は死んだか」

カテゴリー: - tanaka @ 16時05分08秒

(119)「教養は死んだか」―日本人の古典・道徳・宗教 中西輝政PHP2001年

◆なぜ、日本人は「博愛」とか「ボランティア」に対しては腰が引けてしまうのか?

欧米社会においては、唯一絶対者の前にあって、個人の良心に従って湧き出てくるものが道徳であり、外部の国家や社会からの外部的圧力によらないもとする。

しかし、東北アジアの道徳心は違う。良心を生かすには学習が必要である。道徳は教育の成果である。これが東北アジアの牢固とした信念なのだ。これが儒教である。西洋の思想が可能なのは、恐らく一神教の絶対神の前にある個人は神に己を隠すことが出来ない。多神教では、神に対する畏れはあっても一神教徒ほどの絶対的なものではないから神を畏れざるところがあり、道徳に至る良心には十分な信頼性はない。このように、欧米と東北アジアとでは、道徳論の組み立てが違い、道徳感覚に相違がある

◆学ぶというのは、具体的には聖人の残した言葉を学習して良心を生かして行くことであった。内発的ではなくて、外の規範を模範として学習していくということである。こういう本質的な意味でも、青少年に対して奉仕活動という「型の学習をさせる」ことは東北アジアの道徳教育として適切である。

◆東北アジア=儒教文化圏における宗教的構造・・・それは一言で言えば、多神教、シャーマニズム、アニミズムである。一神教ではその神を絶対視するが、多信教の信徒は相対視する。自分にとって利益があるかどうかを大きな拠りどころとする。己の願い事について効くか効かないかということが大切なため、効かない神は捨てて、他の効く神を求めて平気である。多神教徒の場合、神は存在するものの、絶対性はない。各人が各々に自分の神を持つだけだから、各自にとって個別的な絶対の神はあっても人々に共通する最高絶対神はないのである。そうすると、人間世界を支配するものは神ではなくて、人間ということになる。人が最高統治者となるが、その最高者も依るべき神を欲するので、それを“天”とした。人間社会の最高統治者は、天の子、という政治理念が生まれる。

多神教徒は他律的、一神教徒は自律的」・・・西洋近代の思想では、道徳は人間の良心の発露であり、国家や社会などの他律的介入を拒否する。それが可能なのは、おそらく一神教の絶対神の前にある個人は神に対して己を隠すことができず、良心によって接することが基礎としてあるからであろう。

◆エピソードによって、自然と歴史上の人物を知り、自国の歴史についての基本を知ってゆく効果があった。人物伝の面白さを通じて歴史への興味知識とを養ってもいたのである。今はエピソード学習を生かした面白い教材がない。

◆祖先崇拝の感情と“天皇”・・・東北アジア人は、その祖先を尊び、祖先に始まる生命が連続してきたことへの意識が強い。それが日本人の場合、天皇家の連続に投影されている。天皇家に対する畏敬の念は、己の家の祖先たちもまた天皇家と同じ時代を共有しながら生きてきたという帰属感、いわばアイデンティティに行きつく。天皇家への親近感も生まれてきているのである。天皇家への親近感と畏敬の念が、己の祖先に対する気持ちともなり、日本人は安心感、安定感を持つ事が出来るのである。

◆現在の教育基本法は欧米近代思想にのみ基づいており、伝統や国民意識・国民性に共感するものを欠いている。しかも、その欧米近代思想は知識としてとしてのそれであり、それを運用する欧米的基盤などなく、欧米近代思想にとって思いもよらぬ別のものとなっている。すなわち権利のみを主張し義務感はなく、自由ならぬ放恣、個人主義ならぬ利己主義、自己中心にして公共心なく、自律・自立できず他者へのたかり・・・惨憺たるものである。これは、自由や平等の正しい中身は教えず、文字づらだけの型を教えた、誤った「堕落した型」教育に過ぎなかった。東北アジアにおける道徳は他律的教育によって培われるものであり、型を学習させることによって可能となる。日本人には、目標とするモデル、型が必要なのである。そして型に十分に習熟してからあと、はじめて独創や自由が生まれるてくるのである。


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